合縁奇縁

個人的記録。

望む創造

『まさか、こうなるとは』

そんな連続が人生ではないでしょうか。

後悔はしても、しれきれず。

若かりし頃、私は朧に『教師』になりたいという展望を抱いていました。

理由は簡潔です。

私が関わってきた『教師』というモノが非常に醜いものに映ったから。

そんなもの、私がぶち壊してやる。

そう思ったのが動機でした。

建前に終始、自己満足な指導。

そんな大人が、私にはとても醜く映った。

だが結局のところ、学校というモノに対して嫌悪感を抱き続けた私は

教師になることはなかった。

明確な『夢』らしきモノを抱いたのはそれが最後かもしれない。

 

15歳で社会に出て、32歳の今までずっと労働してきた。

学生という経験が私には、皆無です。

それが私にポッカリと欠けている部分でもあると思っています。

 

学校に通ってみようかとも、去年は考えた時があります。

仮に定時制などに今の年齢から通っても

社会的には役に立つモノは得にくいでしょうね。

学など、今の世の中なんの役にも立ちませんよ。

 

20年~30年前なら『学』があるのと、ないのでは違ったでしょうけどね。

今の時代、どれだけ勉強ができようと役に立ちませんね。

私は経験や知恵、学より人間力が何より大切だと思っています。

勿論、研究や智慧の進化には学びが必要な人もいるでしょう。

ですが、明らかに昔とは時代が変わっています。

多くの人は好む、好まざるに関わらず時間の多くを労働に費やし、老いていきます。

それは生きる為には必要不可欠だからですから仕方のない事。

 

私がこんな年齢で学校に通うことを考えたのは、経験が得れると思ったからです。

私には学生という経験がないのです。

それを得ることで、自分に欠けている部分がなにか変わるかもしれない。

そんな風に思ったからでした。

いつか、学校に通いたいなぁと思ってはいます。

 

思い返せば、色々経験してきたなぁとは思います。

今の自分を見て、まさかこうなるとは、と思いますね。

ですが、きっと成るべくして成ってきた結果なのだろうと受け止めています。

なにかが少し違えば、こうならなかったでしょう。

善くも悪くも、私は今の自分を受け入れています。

 

人は過ちを犯す生き物です。

その過ちを幾度と繰り返し、その経験から人間が磨かれ

新しい自分へと日々、変化していきます。

私にとっても、今この時が新しい変化のキッカケかもしれません。

 

近頃、私のことを好意的に想ってくれる人がいます。

その人の人間力が大変興味深く、感性が豊かで興味深いです。

去年別れてから初めて『感性』で、異性に興味を抱きました。

思想や見方、解釈、が通ずるモノがある様子。

今まで、自分を内観されてきたのかもしれませんね。

去年別れてから、何人かの方に好意を持って頂けましたが

そう感じる人は初めてでした。

一面として、その人は脆い部分もあるのかもしれません。

色々なことを思考し、時に答えが出ない答えを永遠と求めるのかもしれません。

器用ではないんだろうと思います。

踏み込んで良いラインと、これ以上は踏み込んではいけないラインというのが

まだまだ不透明ですが、大切な存在の一人です。

 

なにかの巡り会わせがあり、なにかの縁があっての今の存在。

私のベクトルと近い異性と巡り会うのは久しいです。

一つのご縁、大切にできたらと思います。