合縁奇縁

個人的記録。

『今は』と受け容れる事

昨日、久しぶりに西日本まで足を伸ばしました。

想定外な事情により、終始弾丸移動でしたが。

 

私はよく『今は』という言葉を使います。

しかし、使うようになったのは

割と最近じゃないでしょうか。

 

昨日、西日本まで行ったは良いが結果的には

望む結果は得られませんでした。

しかし、ほぼ感情がブレなかったです。

 

私は淡々と受け容れていました。

きっと一般的には受け容れ難い

事象、結果なのかもしれません。

 

そんな私は、寧ろ感謝していました。

○○だったお陰で、私は西日本まで来れた。

○○じゃなかったら、私は感じれなかった気持ち。

○○になったから、今の時間が在る。

 

現実を詮索し、悲観し、比喩し、罵倒する事

そんな言動に意味などありません。

むしろ、無駄なエネルギーでしょう。

 

昔の私なら、今のこういった思考はできなかった。

感情は激しく揺れ、言動にも感情を乗せたまま…

そうなっていたでしょうね。

 

『今』の私は淡々と現実を受け容れ昇華させる

そんな解釈の仕方、捉え方ができるようになりました。

時として、物事や事象に対して理由を求めるのは

無駄、無意味、愚か、自己満、という事があります。

 

人はなぜ理由を求めるのでしょう?

理由を求める場面っていうのは大概の事柄は

『上手に運んでいません』

そう、うまくいっていない場面でこそ

人は理由付けをしたくなりがちなのです。

○○だから!○○なら!

こうやって、うまくいかない現実に

理由付けをしたがるんですよ。

そう思うことで自己満足ができるから。

 

無意味だと私は思いますね。

 

勿論、仕事や人間関係で失敗などした場面は

理由を考え、改善する必要性はありますが

しかしこれは『原因』を求めるであり

それを考え、探す事で

次へ繋がる糧になるからです。

 

ここで云う無意味とは

既に変えられない結果、結論等に

行き着いてしまった事柄に対して理由を求める

という思考についてです。

 

それらは、どうゆう理由であろうと

うまくいかなかったんですよ。

ただそれだけ。

ただそれを受け容れれば終わる話。

だって仕方ないじゃん。

そうなってしまったんだもん。

ただ、それらはあくまでも

『今は』って捉えれば良いんだよ。

未来永劫にそのままの結果とは限らないんだよ。

未来の事なんか分からないでしょ。

 

だから、今は!って考えよう。

別に良いじゃない。

結果を悲観するより

その結果から自分が得れたモノに対して

感謝をしよう。

少しだけでも良い、きっとなにかすら

得れているはずだよ。

結果を悲観する気持ちが強いあまりに

その得れたモノが見えてないだけ。

 

変えようのない現実に縋り、追い続けるより

現実を受け容れ、次のSTEPを踏もう。

『今はそういう時期なんだな』

それくらいの気持ちで良いんだよ。

それくらいフットワーク軽く考えれたら

きっとその先は善いモノになるよ。

 

悲観したくなる現実にぶち当たったら

結果に焦点を当てず、過程に感謝。

もっと言えばさ

その変えようのない現実すら過程にしちゃえば良い

自分でその時、審判をしてしまうから

それが『結果』になってしまうだけだよ。

今はまぁいいかぁ ってくらいなら

一つの過程にしかならないでしょ?

自分で、結果って決めつけてないんだもん。

 

だから、私は淡々と受け容れる事が

できるように変われたのです。

 

私にとって、どんな不利益、不満な現実でも

その中にある善い部分を見るようにしてます。

 

その方が、心穏やかで過ごせますよ。

どんな事象、事柄に対しても受け容れましょう。

 

許せないことなんて無いです。

それはあなたが、許さないだけ。

あなたが、許したくないだけなのです。

 

受け容れましょう、認めましょう、許しましょう。

 

私はあなたに感謝しています。

ありがとう。