合縁奇縁

個人的記録。

気づき

私がこの3ヶ月間で得た、気づきに新しいモノがあります。

それは【こうでなくちゃいけない】という

ブロックは不要と云うこと。

これは紛れもなく、去年お別れした方から得た気づきです。

私は元々の性分として合理的、論理的、という部分があります。

勿論、今でもあります。

ですが、それら考えは時には有用であり、時には無用である。

そう考えられる選択肢を持てるようになれました。

それは、あの方が教えてくれた気づきです。

 

私は物事、事象に対して執着してしまうという傾向があります。

今も勿論、改善している道半ばです。

自分が過去歩んできた知りえる世界見てきた世界

それらしか認めない。そんな思考が私にはきっとあったのです。

自分が行ってきたモノ、築き上げてきたモノ。

きっと、それがさぞ大切だったのでしょう。

自負を持つことは素晴らしいことだと思います。

ですが、それを基準として自分外の世界を裁く、判断する。

これらは愚かである、そう今は思っています。

きっと私の過去の失敗に共通して云えるのは、それかもしれませんね。

 

こうでなくてはいけない。

 

そんなメンタルブロックが私には強くあった。

そんなのを、押し付けられたら誰でも嫌でしょう。

人にはひとの世界がある。

それが如何に自分から見たときに、異議を感じようと。

自分がなぜそれを、裁けるのでしょうか?

そうです、私の価値観を押し付けているだけに過ぎないのです。

自分の尺度で、対象を測り、決め付け、裁いている。

こうして自分の世界を基準にばかりしているから

どんどん苦しくなるのだと、私は考え方を改めていこうと気づけました。

 

どんな事柄でも、どんな事象でも、それを認めることのできる器量。

自分の価値観って、確かに大事だと思うのです。

ですが、それが肥大していき無意識のうちに

その価値観ばかりに固執して、それで目の前のモノを裁いていませんか?

 

私がここで伝えたいのは

認められない事、許せない事なんて無い

という事です。

それは、自分が認めたくないだけであり、許したくないだけです。

なぜそこまで固執するのですか?

それらは過去の経験や、常識的な部分もあることとは思います。

ですが、それらを受け入れられない一番の原因は

自分というモノに拘りすぎているからだと、私は考えます。

色々な世界があって良いじゃないですか。

色々な可能性があって良いじゃないですか。

家族、恋人、友人、どんな関係性の間柄でも

全ての人の、考え方、価値観、その人との在り方の可能性。

自分が拒絶さえしなければ、否定さえしなければ

拓けていけるものだと、今の私は切に思っています。

 

昔の私は、自分の価値観で裁き、それに見合わない人とは

関わりを断ってき続けました。

だからこそ、今の私が創造されているのです。

創造されてしまったのです。

そんな私が今は、自分の凝り固まった世界を壊し

新しい世界を創造できるよう、自分のフィルターを外す

そんな事を大切にしています。

 

そうして、今の自分の現状を自身でも認められるようになったのです。

他者が決めた道を認めることができるようになったのです。

対象が、私が考える道と違った選択をしたとしても

それをただ、認めるのです。受け入れるのです。

簡単ではありません。

とても痛みを伴います。

でも、それでも・・認めてあげましょうよ。

その人がそうしたいのなら。

見守るくらいの気持ちで、温かく見送りましょう。

そして、もしその人が傷ついてボロボロになっていたら

ただ、迎え入れたらいいじゃないですか。

理由なんて、そこには必要ないです。

 

私はいつでも、ここに居る。

 

必要なとき、必要な事象が来たら、それをただ受け入れる。

何事も、その時々において不要で起こることなどないのです。

なにかすら、学びが必ずそこには在ります。

 

周りから一見したら、私は確かに

『なにを考えているか分からない』そんな人に映るでしょう。

全てに対して、許せるようになりたい。

そう考え、全てに接しているだけです。

 

認めない、受け入れない、許さない。

これら感情全て、苦しくなるのは間違いなく自分です。

 

抗わず、身を任せ、泰然と在るがままを認める。

 

本当の愛というのは、求めるモノではなく与えるもの。

自ら与えれば、自ずと自分にも与えられるモノなのです。

 

どこで、どう気づけるか、それで人間が磨かれると

私は思います。